COLUMN特集
2022.03.30 楽器産業 独特のフォルムとクオリティで 今もなお根強いファンを持つ浜松生まれのエレキギター ムーンサルトを知っていますか?
三日月型の独特のボディは人間工学に基づき、持ちやすく演奏しやすい形状。ヘッド部分は星形で、白蝶貝で三日月と星をあしらい、カバーは月を目指すロケットをイメージ。指板には月の満ち欠けを表現した白蝶貝、ボディ全周にはメキシコ貝の装飾が施されているなど匠の技が随所に散りばめられている。
<撮影協力/宮脇敏浩氏所蔵>
バイク、繊維と並んで浜松が世界に誇る産業に楽器製造があります。その代表であるピアノ製造の他にも、管楽器、打楽器、弦楽器など様々な楽器が製造されています。中でも木材加工技術が活かされ製造されたアコースティックギターから派生し、浜松で作られたエレキギターには、伝説の名器とも呼ばれるモデルが存在します。時代の流れでギター製造から撤退した、株式会社河合楽器製作所(以下河合楽器)の「ムーンサルト」もその一つと言えるでしょう。今回、河合楽器でギター製造に関わった高橋公匡氏、池田貴広氏と、「ムーンサルト」の企画・設計を担当した稲見隆博氏に開発当時のお話を聞くことができました。
浜松とギター製造の関わり
天竜川上流の豊富な森林資源は、優れた木工技術を育み、ピアノ製造を発展させる鍵となりました。浜松の楽器メーカーがその材料や技術を使ってギターを作ることは、自然な流れだったのかもしれません。またその技術を見込んで県外の商社からギター製造の企画が持ち込まれるといったような「技術の確かな浜松の楽器メーカーに頼めばできるだろう」という気運があったように思います。クラッシックギターから始まり、1960年代後半のエレキブーム、GSブームを経て、輸出のみならず日本国内でも需要が広まったエレキギターも浜松で作られるようになりました。
河合楽器とエレキギター
河合楽器は、山葉風琴製造所(後の日本楽器製造/現・ヤマハ )でピアノ作りを学び、独自の研究を重ねていった河合小市が起こした河合楽器研究所が前身となる会社。国際的なブランドであるピアノの製造はもとより、オルガンや知育玩具、体育器具など学校教育に関わる製品も積極的に作ってきました。1958年にはギター事業部が発足しクラッシックギターの製造を開始。1963年からは主に輸出用としてエレキギターの製造を始めます。しかし、当時は河合楽器ブランドではなく、輸出先のバイヤーのブランドネームで販売されていました。その後、取引先でもあった、日本のエレキブームの立役者的存在のギターメーカー「TEISCO」が1966年に倒産。翌年、河合楽器傘下に迎え入れられ浜松でエレキギターや周辺機器の製造を開始しました。輸出向けエレキギターのOEM製造が主で、月に40,000~50,000本ものギターを生産し、世界一のギター工場としてアメリカの新聞で報じられたこともあったそうです。
OEMからオリジナルギターへ
1971年、ドルショックの影響でアメリカへの輸出が激減。市場を国内へと軌道修正することになりました。エレキギターのメーカーとして浸透していた「TEISCO」ブランドの再製造と、国内メーカーへのOEM供給、そして「KAWAI」ブランドでのオリジナル製品の製造販売を開始します。いくつか作られたモデルの中で、1977年の楽器ショーで発表され、独特のスタイルで話題になったのがムーンサルトのプロトタイプです。翌年からは製品として生産・販売を開始。1985年に一旦は生産を終了したものの、再販希望の声が絶えず、1997年に再び販売されました。限定カラーや仕様違いがあったり、数量限定で販売され続けていたMSシリーズという機能を絞ったモデルがあったりと、ムーンサルトにも多様なモデルが存在します。残念ながら2007年に河合楽器はギター製造から撤退しましたが、半世紀近いギター事業部の歴史の中でもムーンサルトは特別なギターだったのではないでしょうか。
<河合楽器製作所社内にて 高橋氏、池田氏談>
元ギター事業部の二人。左/高橋公匡氏(現・総務人事部所属) 右/池田貴広氏(現・海外統括部所属)
高橋氏は’80年代からギター設計・製造に携わり、ムーンサルトの限定モデルの製造にも関わった。元々ギター好きだった池田氏はギター専門誌のムーンサルト特集を見て記事内に記載されていた連絡先に電話し、入社を直談判したという。
ムーンサルト開発ストーリー
ムーンサルトの生みの親である稲見氏にその開発のお話をうかがいました。SOU:稲見さんはいつ頃からギター製造に携わったのですか?
稲見:私は1970年に河合楽器に入社して、すぐに遠州工芸(後の河合楽器製作所浅田工場)に配属され、エレキギターの設計を担当しました。以来、2007年の退職までギター設計一筋です。入社当時は、ピアノ部門に次いで多くの社員がギター事業部に在籍していました。ギター製造を担う現場には、家具職人や家を建てられる大工レベルの腕前の方々が多く在籍していて、まさに職人の世界でした。
SOU:当初は輸出がメインだったとうかがいましたが。
稲見:遠州工芸では、主にアメリカ向けのエレキギターのOEM生産をしていました。しかし、輸出がドルショックでダメージを受けて、国内市場向けにオリジナルギターを販売する方向にシフトしていきました。まず、河合楽器傘下となった「TEISCO」ブランドのギターを1972年から製造を再開し、翌年からは国内メーカーのOEMも企画・設計のサポートから製造まで手掛けるようになりました。
SOU:その流れが「KAWAI」オリジナルブランドギターに繋がったのですね。
稲見:はい。スタンダードなスタイルのギターをより魅力的で高級感のあるモデルに仕上げていく中で、やはり「KAWAIの名前でオリジナルスタイルのギターを作りたい!」という気持ちは大きかったですね。そして遂に1977年には「KAWAI」のブランド名で、Xシリーズ、MシリーズそしてF-1、ムーンサルトと、オリジナルのギターを発表しました。
’80年にはギター製造工場を浜松市中区浅田町の遠州工芸(浅田工場)から浜松市東区上新屋町の新屋工場へ移転。’96年には磐田市竜洋町に移転された。右/‘87年頃、新屋工場でのムーンサルト組み立ての様子。
SOU:ムーンサルトの独特なスタイルの発想のもとは?
稲見:当時はかなりの数の設計を抱えていたので、最初のきっかけは詳しく覚えていません(笑)。たぶん、あの頃はアポロ計画がまだ存続していて、映画でも宇宙を舞台にした作品が話題になっていた頃だったことから「宇宙」というテーマがあったのだと思います。ずっと普通のデザインのエレキギターを作ってきたので「もっとインパクトのあるカタチのギターを!」という考えがあったことは鮮明に覚えています。
SOU:苦労した点、こだわった点は?
稲見:宇宙~太陽のイメージから始まって、星形、月形とさまざまな形でデザインを模索しました。私自身ギターを弾くので、奇抜なスタイルでも弾きやすい形状を人間工学の観点からも突き詰めていきました。結果、三日月形に決まり、そこからもデザインを試行錯誤し「ムーンサルト」の形になったのです。ボディの形が決まってからは、他の部分のデザインもアイデアがどんどん湧いてきました。音に関してもディストーション(歪んだ音)やさまざまな音色を出せるように工夫し、電子基盤も設計しました。カラーリングにも随分悩みましたが、宇宙をイメージしたシルバー・サンバーストという黒からボディ中心に向かってシルバーのグラデーションが入ったものと、コスモという濃紺に行き着きました。その後アクリルのクリアボディのクリスタルムーンや、光る月をイメージしたムーンライトイエローなど多くのバリエーションを作りました。
SOU:ムーンサルトという名前の由来は?
稲見:1972年のミュンヘンオリンピックで披露された、体操の塚原光男氏のウルトラCの大技「月面宙返り(ムーンサルト)」にちなんで命名されました。当時、塚原氏は河合楽器の体操部所属だったのです。宇宙のイメージ、月のイメージ、先進のスタイルと音を表すには、まさにぴったりなネーミングだったと思います。後に(1997年)再生産の際には、ウルトラCを超える超難度ウルトラEをイメージした「ムーンサルト スーパーE」というモデルを製造・販売しました。これは金ラメ塗装で部品も一部24金メッキの特別仕様で、塚原氏ご本人にも1台寄贈しました。この塗装は特殊で、河合楽器だからこそできた職人技が光るものでした。
‘97年の再生産時、ギター専門誌に掲載された広告。
SOU:浜松には多くの楽器メーカーがありますが、他社を意識することはありましたか?
稲見:意識をしたとかライバル視するようなことはありませんでした。ただ、アスリートの感覚で、「あいつが良い記録をだしたから(他社が良いモデルを出したから)俺も良い記録を出そう(私も良いモデルを出そう)」という気持ちは常にありました。お互いに切磋琢磨して良いモデルを生み出す結果に繋がっていく、この感じはどの分野のものづくりでも同じではないかと思います。
振り返ってみて、河合楽器でギターの製造に関わることができ、ギター製造終了までを見届けることができてよかったと思います。退職後の今もギター関係の仕事を続けています。
SOU:貴重なお話、ありがとうございました。
浜松の楽器産業はピアノ、オルガンといった木工や機械製造の技術を活かした製品から始まり、最先端の電子楽器まで、新ジャンルの開発などの試行錯誤を経て、それぞれのメーカーの中でドラマを生みながら挑戦を続けています。
時代の流れに飲み込まれることなくその存在を主張し、ファンに愛され続ける製品を生み出すことは難しいことである反面、それが叶うことはものづくりの醍醐味ではないでしょうか。日本を代表する楽器メーカーをはじめ、多様なメーカーが拠点を置く浜松には、そんな「ものづくりのストーリー」がまだまだあるような気がします。